企業文明の外 2

1930年代にはさらに長期構造的要因として、老齢者人口の増大、地力の消耗による離農者の増加、新規労働力人口の年々の膨張。


さらに1920年代の好況期にも100万人を下らなかった、救済を受ける長期失業者が加わって、貧困の問題をいっそう複雑にしました。


1942年に行われた全国資源企画庁(NRPB)の推定によれば、いぜん不況下の1936財政年度において1830万世帯、約6000万人の年間所得は1000ドル以下であり、さらに670万世帯が500ドル以下でした。


1937年にローズベルト大統領は「国民の3分の1があばら家に住み、ぼろぼろの衣服をまとい、栄養失調であった」と述べています。


しかし、その数字は内輪に過ぎ、パターソンによれば、おそらく実際には国民の40~50%に達していたとみられます。


これに対し、大恐慌の直接の犠牲者である失業者の方はどうだったのでしょうか。


正式の政府推定によれば、失業者数は1929年の160万人から、1933年には1280万人、総労働力の25%というピークに達していました。


別の推定ではその数は1500万人で、間接的には総人口1億2500万人の3分の1に影響を与えたともいわれます。


いずれにしても、この失業者に長期構造的貧困者の数を加えれば、1930年代の経済破綻がいかに社会的に深刻なものであったかが察せられるでしょう。

企業文明の外

・・・みじめな男にゃひどい時代・・・。


お金の顔が見られないとき・・・。


今じゃ、あんたやおれにもひどい時代・・・。


生まれてこのかたそうだった・・・。


いつの時代にも、社会階層の1番下積みで貧困にあえいでいた黒人からみれば、「大恐慌はそれまで長いこと行き渡っていた不当な経済的状況が、単に強化されただけのことであった」(カリフォルニア大学バークレー校教授ローレンス・W・ルビーン)。


こうした黒人が口ずさむ歌のなかにも、大恐慌になって急に増えた貧乏人の仲間のことが出てくるのです。


しかし、ルビーンが指摘するように、「アメリカ人は、国民全体としては、1890年代以来、長期間にわたる大きな経済危機というものを体験したことがなかった」のです。


彼らが「浮かれ騒ぎの20年代」から目が覚めてみると、おどろいたことには新入りの貧民として、無料給食の長い行列にならんでいる自分を発見したのです。


この失業者という新入りに対して、古参の貧民は大恐慌以前から存在していました。


彼らは企業文明社会からは事実上完全に疎外されていました。


ブラウン大学の歴史学者ジェームズ・T・パターソンは、この古参の貧民を就業不能者(老人、病人、身体障害者、母子家庭の子供)、差別化される少数グループ、不安定もしくは低賃金の労働者、不況地域や不況産業に配転された被雇用者、の4タイプに分類しています。

ラジオ産業を支配する者 3

ラジオは1930年代から40年代にかけて、娯楽番組を中心として、よくも悪くもアメリカにおける大衆文化の形成に大きな役割を演じました。


同時に第二次世界大戦の足音が近づくにつれて、別の意味でラジオはその重要性を増していきます。


ローズベルト大統領はその就任早々から世論指導の上でのラジオの役割を生かし、有名な「炉辺談話」で大衆の人気を獲得しました。


さらにヨーロッパやアジアでの戦局が緊迫の度合いを増すとともに、報道番組や時事解説が重要な役割を演ずるようになり、戦争が始まると、当然のことながら、各家庭の必需品となったのです。


しかし、ラジオ放送業界は、ミシガン州立大学のアメリカ文化史研究者のラッセル・ナイもいうように、もはや欄熟期に入っていました。


「・・・1935年から50年までの間にラジオは富と力を手に入れ、大衆に迎えられ、最盛期にあったのである。


実際面からいえば、何ひとつとして新しいものが発明考案されたわけではなかった。


番組の大部分は映画、舞台、小説などから幾世代にもわたって大衆芸術の支えとなってきた同じ素材を、ラジオという新しいメディアに適合するような形に鋳込んで巧みに利用し、転用していたにすぎなかった。


ラジオは古いものを新しい方法でやり直しているだけでしかなかった・・・」。


ラジオはこのころになると、1000を超す局が年間750万余の番組を放送していましたが、これを1日にしてみると、2万2000の異なった番組が流されていたことになります。


しかし、前にもあげたラジオの父ともいうべきフォレスト博士はいっそう絶望的な調子で、「文化と優れた音楽と、アメリカ大衆の知的向上のための有力な媒介となり得たと思われるもの」が、それとは反対に、一般の平均的知性を=2歳の水準にとどめておくための嘲罵の的」になり下がったことを慨嘆しました。


明らかにラジオに凋落の兆しが見えたのは、1948年のことです。


7500万台というラジオの所有台数に対し、テレビはまだ100万台にすぎなかったのですが、ある著名なラジオ評論家は、「この言葉は幾分かは疑わしく思っているのだが、これは一時代の終息と、別な一時代の始まりをしるすものだと言いたい」と語っています。


それ以後は明らかにラジオの衰退がはじまり、新しく登場したメディアのテレビにその王座を譲ったのです。

ラジオ産業を支配する者 2

ラジオの人気は、P&Gやリーバ・ブラザースなどの石けん会社がスポンサーとなったので、「ソープ・オペラ」といわれる連続ラジオドラマの大流行を促すことになりました。


午後になると、どの家庭でも、主婦がドラマを聴きながら家事をするという習慣さえ生まれました。


これとともに、聴取者は子供から老人に至るまで、コマーシャル・ソングやメッセージ(キャッチフレーズ)を
覚えこまされ、キャメイやラックス(石けん)、ケロッグのコーンフレーク、コカコーラやペプシコーラ、P&Gの歯磨き粉や歯ブラシ、たばこではキャメルやラッキー・ストライクといった具合に、自然のうちに「製品差別化」を押しつけられる結果となったのです。


また、自動車や家庭用電気製品の耐久消費財メーカーも、放送局の最も有難い顧客となりました。


したがって、ラジオ放送局が収入の大部分を広告に依存するようになるとともに、スポンサーと広告代理店が、ラジオ業界を支配するようになっていきました。


1930年代の「ラジオの黄金時代」も、実際にはこれらのビッグ・ビジネスによるラジオの支配を意味するにすぎなかったのです。


たとえば、1944年にはCBSは1回100万ドル以上の番組を買ってくれる13社の顧客に頼っていましたが、このうちの3社は1回400万ドル以上を払ってくれる大スポンサーでした。


同じように、NBCは100万ドル以上の顧客11社、ABCも9社に依存していました。


他方、広告代理店となると、大スポンサーへの依存はさらに大きいものでした。


J・ウォルター・トムプソン、ヤング&ルビカム、ダンサー・フィッツジェラルドの3大代理店は3大ネットワークの放送時間の4分の1を占めていました。


また1945年には、広告主7社と広告代理店6社は、CBSの売上高の半分近くをまかなっていたのです。


同様に広告主12社と代理店5社は、ABCの売上高の40%以上を握っていました。


こういった状態でしたから、放送局の自主性は失われ、大スポンサーと大広告代理店のいうがままにならざるを得なくなっていったのです。


しかも、1930年代にエージェントが放送局にかわって、スター、シナリオ、監督、音響効果など、制作にかかわるすべてを担当して、そのショーをスポンサーに売り渡すというシステムが定着し、のちにテレビにも受け継がれることになりました。

ラジオ産業を支配する者

ラジオという絶好の新しいメディアに飛びついた広告代理店は、全国ネットワークでラジオ・アドを流しはじめます。


ラジオの生みの親のリー・D・フォレスト博士は「直接広告の貧欲はたちまち生き血を吸う本性をあらわし、ラジオが持つ最大の利便をぶちこわすであろう」と述べました。


そして、「エーテルのような広告の下劣さ」を非難したのです。


しかし、「ラジオ・ネットワークは学ぶことに、儲けることにあまりにも忙しかったので、こうしたアドバイスに耳を傾ける余裕はなかった」のです。


広告代理店はスポンサーの要望に応えて、ますます人気の高い、長続きのする番組の制作に力を注ぐようになりました。


なかでも1929年に始まったP&G提供の家庭コメディー・ショー『エイモスとアンディー』は大当たりを取り、スポンサーのペプソデント歯磨の売り上げは、数週間のうちに3倍になりました。


1930年代の不況のなかで、人びとは夜7時になると『エイモスとアンディー』を聴くためにラジオの前に集まりました。


当時、アメリカ人の3人に1人はこれを聴いていたといいます。


映画館では客をとられないように、ロビーでラジオを聴かせます。


水道局は「この放送時間が終わるといっせいに人びとがトイレにゆくため、水庄が下がる」と報告しています。


あの気むずかしいイギリスの劇作家で、その鋭い皮肉と文明批評で有名なバーナード・ショウでさえ、「アメリカについて忘れられないものが3つある」とし、ロッキー山脈、ナイアガラの滝とともに、『エイモスとアンディー』をあげています。

ロッテ「ガム製造」・・・その4

エステルガムは当時、あまりなかったので松脂、そして、砂糖は統制下に置かれていたのでサッカリンやズルチン、香料としてアミノルアセテートを少量添加してバナナ様の香りをもたせたといいます。

重光がチューインガムを製造し始めた22年頃になると、酢酸ビニールも大分改善され、重合度1200ないし1500のものが製造できるようになりました。

積水化学株式会社が風船ガムの製造を開始し、『金太郎ガム』を発売したのものこの頃のことであったとロッテの社史はいいます。

ビニール風船の原料を製造していたのも積永化学であるから、符節が合います。

ロッテ「ガム製造」・・・その3

チューインガムの初期の製造方法ですが、ガムベースとして使用されていたのが、新日本窒素株式会社で製造していた、窒素ビニールである酢酸エチル50%入りの酢酸ビニール樹脂です。

その重合度は2千ないし3千のものでした。

これくらい重合度の高い酢酸ビニールを使用した場合には、多量の可塑剤を使用しなければいけないので、戦時中より塗料用可塑剤として、大八化学株式会社で製造していたジプチルフタレート(D・T・P)が使用されました。

ロッテ「ガム製造」・・・その2

南米産の天然樹脂は電気の絶縁材とか、歯科医が歯形をとるときなどのように、特殊なところでしか使用されていませせんでした。

当時、他のガムメーカーは戦時中に日本軍が航空糧食として唾液分泌の促進のために用いていた酢酸ビニール樹脂を基材にして製造していました。

重光は天然チクルの優秀性を知りつつも、そのような事情からやむなく酢酸ビニールを使用してガムの生産を続行するしかなかったそうです。

ロッテ「ガム製造」・・・その1

石鹸を製造してある程度の成功を収めた重光でしたが、同業者も増えだし、先行きに不安を持っていました。

ある日、進駐軍のジープのまわりに群がり寄ってガムをせがむ子供たちの姿を見て、「これだ!」と重光はガムの将来性を見通しました。

ガム事業へのはじめであった。

昭和22年4月、チューインガム原料として外国製品に利用されている南米産天然樹脂が、少量ながら国内にもあることを知り、これを購入して当時としては最良の品質を持つガムを完成させました。

しかし、南米産の天然樹脂は絶対量が少なかったのです。

ロッテ創業のはなし・・・その2

重光は昭和19年、早稲田高等工学校の学生だったころ、知人の老人から、「戦争が激しくて店をやっていけない。何か適当な商売はないか」と相談を持ちかけられました。

重光はたまたま学資稼ぎに出入りしていた「切削油」の製造はどうかと答えます。

切削油は旋盤で金属を削るときに冷却するために使います。

その提案に乗った老人と八王子で工場をはじめましたが、空襲ですべてが灰燧に帰しました。

焼け跡で肩を落とす老人をみて「損をしたお金をなんとか返却してあげねば……」と重光は思う。

そして石鹸の製造に乗り出し、これが成功して昭和22年頃には老人に5万円という大金を返すことができたそうです。

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