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      <title>おやつの時間です。</title>
      <link>http://stamps-on-line.com/</link>
      <description>意外と面白いお菓子の歴史～</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2011</copyright>
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         <title>ドライバーのモラル</title>
         <description><![CDATA[
抜かれる側はアクセルをゆるめて、スッと入れてやるのがマナーです。


これから<a href="http://www.menkyo-pts.jp/" target="_blank">合宿免許</a>をとる人に望みたいのは、追越し車線をトラックが占領したり、我関せずとばかり遅いクルマが走行車線をブロックするといった行為は恥ずかしいことだという認識がドライバーのあいだに広がることです。


いまの日本の高速道路はどこからでもかまわないから抜きなさい、ジグザグ走行をおやりなさいと言っているのも同然です。


たしかに100㎞/hから120㎞/hで流れているところを160㎞/hも出してジグザグ走れば、ほとんど自由に行動できます。


しかし、もしそのクルマが何かの理由でバランスを失ったらどうです。


こういうことを防ぐ意味でも、追い越しは右側からを鉄則にすることです。


これをドイツ的にすべてルールで割りきり、違反したドライバーを警察に密告するというのはわたしの好むところではありません。


法律で強制されなくても、ドライバーの自発的なモラルによって秩序が成り立つのが、交通の望ましい姿じゃないでしょうか。



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         <pubDate>Tue, 06 Dec 2011 18:08:13 +0900</pubDate>
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         <title>地球統一の時代へ</title>
         <description><![CDATA[その時代・時代の「正しい思想」のみは、私達の地球に歴然として存在している「原理」(世界の根源、善・悪の全てを呑込んだ善)そのものが、その思想を結びつけて離さないからです。


自惚れ屋の私から言わせて戴けば・・・


私の思想は、この地球上で今後少なく見積っても数百年間は生き続ける以外にない、ということです。


何故ならば、氏のキリスト教に反逆した事実・思想と私の日本国家に反逆した事実・思想は、万人がいずれかの時でそれを衆知しない限り・・・


「神の魂」(その時代で万人に浸透すべき最高思想)の行先が何一つなくなってしまうからです。


つまり、「アメリカ原理」と「日本原理」、政治家・知識人を始めとした「権力側原理」と私を始めとする「庶民側原理」が調和化した時・・・


私達の地球は、地球創設以来始めて「統一」(愛)されるのではないでしょうか。


今後の地球の歴史は、ここから出発します。


この話について気になった方は<a href="http://www.uranai-king.com" target="_blank">電話占いのランキング</a>をどうぞ。


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         <link>http://stamps-on-line.com/2011/06/post_17.html</link>
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         <pubDate>Sat, 11 Jun 2011 12:53:38 +0900</pubDate>
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         <title>凹版について</title>
         <description><![CDATA[昔は平らな銅版を使用していましたが、今は円筒形のシリンダーに写真的に画線部(印刷する絵や文字)を焼き付け、腐食させて凹版にしています。


そして、インキをつけた、ドクターという鋼鉄の刃でインキをかき落とし、版と圧胴(印刷するために紙などに圧力を加えるもの)の問に紙を入れてインキを転移しています。


現在の凹版の製版方法は大きく2つあり、15世紀初め頃には既にあった、彫刻版といわれるエッチングやドライポイントと同様の直接版を彫る「彩紋彫刻」と、19世紀末に開発されて現在では雑誌のグラビア写真やポスターなどの印刷によく利用されている"グラビア"とがあります。


そして、今の時代では、<a href="http://www.recycle-toner.com/" target="_blank">リサイクルトナー</a>も活用されています。
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         <pubDate>Mon, 14 Mar 2011 17:31:08 +0900</pubDate>
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         <title>相手にとって必要な表現</title>
         <description>相手に理解してもらうためにはどう言い表したらよいか、相手にとってピソとくる表現をしなければなりません。


たくさんの表現が可能でも、習慣的な言いまわしはほんの限られた数しかありません。


この中でどれが最もふさわしい表現とみなされるかは、そのことばを話す人のグループによって異なり、また時代の影響によって変わって行きます。


『英語に強くなる本』で有名になった故岩田一男氏はトイレをノックされたら「サムワンイン」と答えるよう教えたことがありました。


岩田氏の本の初版が発行された頃アメリカへ来た私は、東のはしから西のはしまで生活したり旅行したりしました。


過去十数年間、一度も岩田氏の教えられた答えを聞いたことがありません。


それでは、多分イギリス人の英語だろうと考え、イギリスで気をつけて観察しました。


イギリスにはきれいな公衆便所が町中に見つかります。


・・・しかし、2週間の英国旅行中一度も耳にしませんでした。

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         <pubDate>Fri, 04 Mar 2011 13:35:34 +0900</pubDate>
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         <title>重要な前提</title>
         <description><![CDATA[マーケティングに直接関係のない経理、総務、人事、資材・・・


こういったセクションが、コミュニケーション意識をもつことが重要です。


ノン・マーケティング部門が社会コミュニケーションに関して意識革新をもつことは、結果として、企業全体がコミュニケーション志向の姿勢をとることになります。


そこから派生する企業の諸行動が、効果的に作用し合うメリットを呼びこむことになります。


コーポレート・コミュニケーションは、企業と社会、企業内の各セクション、企業と個人という関係において・・・


より理解を深め、納得し、共鳴を得られる行動をおこすための重要な前提であるのです。


これらのことは、<a href="http://www.grill-de-annex.net/" target="_blank">神戸　観光</a>などの観光会社においても言えることでしょう。

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         <link>http://stamps-on-line.com/2011/02/post_14.html</link>
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         <pubDate>Wed, 16 Feb 2011 15:45:51 +0900</pubDate>
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         <title>トンネル</title>
         <description>北海道　ツアーでは、青森から函館までは約2時間かかる。


新幹線の東京から仙台までとほとんど変わらない。


青函トンネルとは恐ろしく長いのだなと思われるかもしれないが、そうではない。


もちろん全長53・85キロメートルの青函トンネルは世界一の長さなのだが、その通過所要時間は30分程度です。


この区問は青函トンネルの入ロまでと、トンネルを出てからの函館までが長いのです。


青森～函館間のうち、津軽海峡線として新しく敷設されたのはトンネル部分とその導入部で、両端の部分は青森側が津軽線、函館側が江差線の既存の路線を借用しています。
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         <link>http://stamps-on-line.com/2011/01/post_12.html</link>
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         <pubDate>Tue, 25 Jan 2011 11:58:26 +0900</pubDate>
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         <title>旅行は計画が楽しい</title>
         <description>よく旅行は計画が楽しいなどといわれる。


北海道　レンタカー付きプランの旅行には、計画の段階、旅行中の段階、帰ってきてから写真を整理したりして思い出に浸る段階と、三部作で構成されているといっていいが、やはり一番楽しいのは旅行中であることにほかならないと思います。


しかし計画という部分は、その旅行中を楽しくできるかどうかという重要な部分を担っていて、実際の旅行はその計画を実行しているにすぎないと考えれば、計画の段階で楽しむということもうなずける。


その計画を旅行中にもやらなければならないというのは、面倒であるより楽しみが倍増するといえるかもしれない。


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         <link>http://stamps-on-line.com/2011/01/post_13.html</link>
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         <pubDate>Fri, 07 Jan 2011 13:08:22 +0900</pubDate>
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         <title>企業文明の外　5</title>
         <description>ルビーンはこのようなアメリカ人の保守性を、1930年代における大衆文化のなかでとらえようとしています。


たとえばウォルト・ディズニーの漫画映画がそれです。


なかでも『3匹の子豚』は誰からも好かれました。


このテーマソングは「一夜にして国歌になった」といわれます。


さらにマーガレット・ミッチェル女史の『風と共に去りぬ』(1936年)は、100万部というベストセラーとなり、映画でも大当たりをとりました。


ルビーンはその人気について、「『風と共に去りぬ』の真の意義は、たいていの表現文化と同様な現実逃避にあるのではなくて、再確認にある」と述べています。


ちょうど大恐慌と同じように、突如として世界が南北戦争の混沌と不条理へと解体していくなかで、女主人公のスカーレット・オハラはこれに屈せず、農園の再建に立ち向かいます。


彼女はこういうのです。


「明日そのことを考えよう。そしたら耐えられるわ。明日、なんとかして彼(レット・バトラー)を取り戻す方法を考えよう。結局明日は別の日なのだから」と。


この大不況のなかで、アメリカ第1の富豪ジョン・D・ロックフェラーが1937年に98歳で息を引き取ったのは、ある意味では象徴的でもあり、皮肉でもありました。


オハイオの油田であれほど怨嵯の声を浴びた彼は、いまは新聞から「アメリカン・ドリーム」のシンボルとして尊敬を受けました。


たとえば『オブザーバー』紙は彼の生涯を、「質素倹約という素朴な美徳が生み出す」ものの典型的な例であり、アメリカ市民のすべてに与えられた「無限の可能性」の象徴であると讃えたのです。

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         <pubDate>Mon, 18 Oct 2010 14:07:13 +0900</pubDate>
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         <title>企業文明の外　4</title>
         <description>ルビーンの観点からすれば、1930年代を2つの時期に分け、はじめを保守主義の時代、あとのほうを革新と変化の時代というように割り切ってしまうことはつつしまなければならないということです。


またローズベルトのニューディールにしても、多くの学者がそうしているように、これを第1期と第2期といったように分けることは好ましくありません。


ルビーンによれば、こういうことです。


「むしろ、大恐慌を複雑で、2律背反で、無秩序な時代として理解すべきである。


というのは、この時代は、深い文化的変化の兆候を明らかにしていたときですら、文化の持続性を証明していたからである」。


この「文化の持続性」があったからこそ、大恐慌という社会的下地が十分にあったにもかかわらず、アメリカで社会革命が起こらなかったのだと、彼は多くの実例をあげて主張します。


アメリカ人の多くは、貧困という恥辱感からむしろ自尊心を強めました。


逆にいえばアメリカ人の自尊心が恥辱を支えたともいえるでしょう。


彼らは貧困を不面目で罪深いものとし、失業を自らの怠惰と失敗のせいにして、これを内向的に、個人的責任に負わせようとしたのです。


したがって、集団的に革命的行動を起こすという気運は、かもし出されませんでした。


個人主義的自覚が自己の不遇に対する怒りを鎮めたのです。


農民は落ちぶれた自分の運命に対し、恨みも怒りも表に出さずに、ただ「おれのせいだよ。おれが悪いのさ。利口じゃなかったってことさ」とつぶやいただけだったのです。

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         <pubDate>Fri, 08 Oct 2010 14:02:10 +0900</pubDate>
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         <title>企業文明の外　3</title>
         <description>スタインベックの小説『怒りの葡萄』(1939年)では、オクラホマ州の小作人(オーキーズ）一家が生まれた土地を追われて、カリフォルニアへと放浪する悲劇が描かれました。


南部の貧農、とくに小作農の生活は悲惨を極めていました。


南部には1930年に850万人(うち300万人は黒人)の小作農がいて、南部人口の4分の1を占めていたのです。


彼らは通常2部屋か3部屋のぼろ小屋に住んでいましたが、間仕切りも、ドアも、水道も、電気も、衛生的な井戸もありませんでした。


彼らが食べるものは塩づけの豚肉、小麦粉、とうもろこし粉、糖蜜、乾し豆にすぎなかったのです。


これら多くの小作人には現金収入がありませんでした。


彼らの1932年の平均年間収入は、一世帯あたり105ドルほどでした。


このように大恐慌に直面して、アメリカ国民は貧困と失業に打ちのめされたのでしたが、社会的な観点からみると、1930年代は大衆文化の転換期であったということができます。


ルビーンはこの10年間について、『大恐慌時代の大衆文化』のなかで、次のように述べています。


「・・・大恐慌の10年間を通して見られることは、個人や社会や仕事や流動性に対する伝統的態度が、まさしくあらゆる階層の人びとによって、さまざまな文化のジャンルのなかで、強い確信をもって表現されていたということである。


しかし、この10年間の表現文化が、またこのような価値観が、変化をこうむりつつあった、微妙だが重要な行き方を示す決定的な指標となっているというのも、同様に事実である・・・」。

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         <link>http://stamps-on-line.com/2010/09/3_1.html</link>
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         <pubDate>Sat, 18 Sep 2010 14:00:07 +0900</pubDate>
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         <title>企業文明の外　2</title>
         <description>1930年代にはさらに長期構造的要因として、老齢者人口の増大、地力の消耗による離農者の増加、新規労働力人口の年々の膨張。


さらに1920年代の好況期にも100万人を下らなかった、救済を受ける長期失業者が加わって、貧困の問題をいっそう複雑にしました。


1942年に行われた全国資源企画庁(NRPB)の推定によれば、いぜん不況下の1936財政年度において1830万世帯、約6000万人の年間所得は1000ドル以下であり、さらに670万世帯が500ドル以下でした。


1937年にローズベルト大統領は「国民の3分の1があばら家に住み、ぼろぼろの衣服をまとい、栄養失調であった」と述べています。


しかし、その数字は内輪に過ぎ、パターソンによれば、おそらく実際には国民の40～50%に達していたとみられます。


これに対し、大恐慌の直接の犠牲者である失業者の方はどうだったのでしょうか。


正式の政府推定によれば、失業者数は1929年の160万人から、1933年には1280万人、総労働力の25%というピークに達していました。


別の推定ではその数は1500万人で、間接的には総人口1億2500万人の3分の1に影響を与えたともいわれます。


いずれにしても、この失業者に長期構造的貧困者の数を加えれば、1930年代の経済破綻がいかに社会的に深刻なものであったかが察せられるでしょう。

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         <pubDate>Wed, 08 Sep 2010 13:58:13 +0900</pubDate>
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         <title>企業文明の外</title>
         <description>・・・みじめな男にゃひどい時代・・・。


お金の顔が見られないとき・・・。


今じゃ、あんたやおれにもひどい時代・・・。


生まれてこのかたそうだった・・・。


いつの時代にも、社会階層の1番下積みで貧困にあえいでいた黒人からみれば、「大恐慌はそれまで長いこと行き渡っていた不当な経済的状況が、単に強化されただけのことであった」(カリフォルニア大学バークレー校教授ローレンス・W・ルビーン)。


こうした黒人が口ずさむ歌のなかにも、大恐慌になって急に増えた貧乏人の仲間のことが出てくるのです。


しかし、ルビーンが指摘するように、「アメリカ人は、国民全体としては、1890年代以来、長期間にわたる大きな経済危機というものを体験したことがなかった」のです。


彼らが「浮かれ騒ぎの20年代」から目が覚めてみると、おどろいたことには新入りの貧民として、無料給食の長い行列にならんでいる自分を発見したのです。


この失業者という新入りに対して、古参の貧民は大恐慌以前から存在していました。


彼らは企業文明社会からは事実上完全に疎外されていました。


ブラウン大学の歴史学者ジェームズ・T・パターソンは、この古参の貧民を就業不能者(老人、病人、身体障害者、母子家庭の子供)、差別化される少数グループ、不安定もしくは低賃金の労働者、不況地域や不況産業に配転された被雇用者、の4タイプに分類しています。

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         <pubDate>Wed, 18 Aug 2010 13:56:12 +0900</pubDate>
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         <title>ラジオ産業を支配する者　3</title>
         <description>ラジオは1930年代から40年代にかけて、娯楽番組を中心として、よくも悪くもアメリカにおける大衆文化の形成に大きな役割を演じました。


同時に第二次世界大戦の足音が近づくにつれて、別の意味でラジオはその重要性を増していきます。


ローズベルト大統領はその就任早々から世論指導の上でのラジオの役割を生かし、有名な「炉辺談話」で大衆の人気を獲得しました。


さらにヨーロッパやアジアでの戦局が緊迫の度合いを増すとともに、報道番組や時事解説が重要な役割を演ずるようになり、戦争が始まると、当然のことながら、各家庭の必需品となったのです。


しかし、ラジオ放送業界は、ミシガン州立大学のアメリカ文化史研究者のラッセル・ナイもいうように、もはや欄熟期に入っていました。


「・・・1935年から50年までの間にラジオは富と力を手に入れ、大衆に迎えられ、最盛期にあったのである。


実際面からいえば、何ひとつとして新しいものが発明考案されたわけではなかった。


番組の大部分は映画、舞台、小説などから幾世代にもわたって大衆芸術の支えとなってきた同じ素材を、ラジオという新しいメディアに適合するような形に鋳込んで巧みに利用し、転用していたにすぎなかった。


ラジオは古いものを新しい方法でやり直しているだけでしかなかった・・・」。


ラジオはこのころになると、1000を超す局が年間750万余の番組を放送していましたが、これを1日にしてみると、2万2000の異なった番組が流されていたことになります。


しかし、前にもあげたラジオの父ともいうべきフォレスト博士はいっそう絶望的な調子で、「文化と優れた音楽と、アメリカ大衆の知的向上のための有力な媒介となり得たと思われるもの」が、それとは反対に、一般の平均的知性を=2歳の水準にとどめておくための嘲罵の的」になり下がったことを慨嘆しました。


明らかにラジオに凋落の兆しが見えたのは、1948年のことです。


7500万台というラジオの所有台数に対し、テレビはまだ100万台にすぎなかったのですが、ある著名なラジオ評論家は、「この言葉は幾分かは疑わしく思っているのだが、これは一時代の終息と、別な一時代の始まりをしるすものだと言いたい」と語っています。


それ以後は明らかにラジオの衰退がはじまり、新しく登場したメディアのテレビにその王座を譲ったのです。

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         <pubDate>Sun, 08 Aug 2010 13:53:54 +0900</pubDate>
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         <title>ラジオ産業を支配する者　2</title>
         <description>ラジオの人気は、P&amp;Gやリーバ・ブラザースなどの石けん会社がスポンサーとなったので、「ソープ・オペラ」といわれる連続ラジオドラマの大流行を促すことになりました。


午後になると、どの家庭でも、主婦がドラマを聴きながら家事をするという習慣さえ生まれました。


これとともに、聴取者は子供から老人に至るまで、コマーシャル・ソングやメッセージ(キャッチフレーズ)を
覚えこまされ、キャメイやラックス(石けん)、ケロッグのコーンフレーク、コカコーラやペプシコーラ、P&amp;Gの歯磨き粉や歯ブラシ、たばこではキャメルやラッキー・ストライクといった具合に、自然のうちに「製品差別化」を押しつけられる結果となったのです。


また、自動車や家庭用電気製品の耐久消費財メーカーも、放送局の最も有難い顧客となりました。


したがって、ラジオ放送局が収入の大部分を広告に依存するようになるとともに、スポンサーと広告代理店が、ラジオ業界を支配するようになっていきました。


1930年代の「ラジオの黄金時代」も、実際にはこれらのビッグ・ビジネスによるラジオの支配を意味するにすぎなかったのです。


たとえば、1944年にはCBSは1回100万ドル以上の番組を買ってくれる13社の顧客に頼っていましたが、このうちの3社は1回400万ドル以上を払ってくれる大スポンサーでした。


同じように、NBCは100万ドル以上の顧客11社、ABCも9社に依存していました。


他方、広告代理店となると、大スポンサーへの依存はさらに大きいものでした。


J・ウォルター・トムプソン、ヤング&amp;ルビカム、ダンサー・フィッツジェラルドの3大代理店は3大ネットワークの放送時間の4分の1を占めていました。


また1945年には、広告主7社と広告代理店6社は、CBSの売上高の半分近くをまかなっていたのです。


同様に広告主12社と代理店5社は、ABCの売上高の40%以上を握っていました。


こういった状態でしたから、放送局の自主性は失われ、大スポンサーと大広告代理店のいうがままにならざるを得なくなっていったのです。


しかも、1930年代にエージェントが放送局にかわって、スター、シナリオ、監督、音響効果など、制作にかかわるすべてを担当して、そのショーをスポンサーに売り渡すというシステムが定着し、のちにテレビにも受け継がれることになりました。

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         <link>http://stamps-on-line.com/2010/07/2.html</link>
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         <pubDate>Sun, 18 Jul 2010 13:51:06 +0900</pubDate>
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         <title>ラジオ産業を支配する者</title>
         <description>ラジオという絶好の新しいメディアに飛びついた広告代理店は、全国ネットワークでラジオ・アドを流しはじめます。


ラジオの生みの親のリー・D・フォレスト博士は「直接広告の貧欲はたちまち生き血を吸う本性をあらわし、ラジオが持つ最大の利便をぶちこわすであろう」と述べました。


そして、「エーテルのような広告の下劣さ」を非難したのです。


しかし、「ラジオ・ネットワークは学ぶことに、儲けることにあまりにも忙しかったので、こうしたアドバイスに耳を傾ける余裕はなかった」のです。


広告代理店はスポンサーの要望に応えて、ますます人気の高い、長続きのする番組の制作に力を注ぐようになりました。


なかでも1929年に始まったP&amp;G提供の家庭コメディー・ショー『エイモスとアンディー』は大当たりを取り、スポンサーのペプソデント歯磨の売り上げは、数週間のうちに3倍になりました。


1930年代の不況のなかで、人びとは夜7時になると『エイモスとアンディー』を聴くためにラジオの前に集まりました。


当時、アメリカ人の3人に1人はこれを聴いていたといいます。


映画館では客をとられないように、ロビーでラジオを聴かせます。


水道局は「この放送時間が終わるといっせいに人びとがトイレにゆくため、水庄が下がる」と報告しています。


あの気むずかしいイギリスの劇作家で、その鋭い皮肉と文明批評で有名なバーナード・ショウでさえ、「アメリカについて忘れられないものが3つある」とし、ロッキー山脈、ナイアガラの滝とともに、『エイモスとアンディー』をあげています。

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         <pubDate>Sat, 10 Jul 2010 13:49:17 +0900</pubDate>
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